家族について書くということは、普通はしませんよね。笑い話か、ちょっといい話し(泣かせる話)以外は、あまり見かけない。ましてや芸人は家族が見えて来ない方が望ましいのです。渥美清さんとか、昔の芸人さんは家族や親の話をしない。スゴイなと思う。プロの役者だなと思う。
 太田光が心酔する立川談志が、彼に対して「天下取っちゃえよ。ただしオマエは女房の話はするな。」と言った。ワカル。すごいワカル。
 うーむ、いきなり話がそれた。親の話の筈だったんです。早い話が親が死んじゃったのです。普通生々しい話は書きたがらないし、読みたがらないもんです。でも、書いておきたいんですよ。
 一昨年、母が死にまして、今年3月父が死にました。昨年は義父が死んだってこともあって、3年連続年賀状が書けないのです。父はそこらへんオーラカだったので、次の年賀状は出しちゃおうかしら。さすがにオメデトウとは書けませんが。

 こんな文章は不愉快ですか。不謹慎ですか。ま、たしかに親戚に読まれたら困りますけど。ブッチャケ親戚の人たちとも、冠婚葬祭以外は、あまり会うことも無くなると思う。
 親戚付き合いも無く、そして私には子供も親も無いんですよ。これってスゴクネ?どう思われますか。不憫ですか。羨ましいですか。
 親が死ぬってのはデカイですよ。ハードディスクがクラッシュするよりデカイです。順を追って書いてみよう。思い出しながら。
 以前拙書「ソガイカン」に、父が危篤後に生き返った話を書きました。その後、母が入院しました。癌なのだけど告知しなかった。最後まで言えなかった。それで良かったと思う。ケースバイケースですよ。人に因る。
 死を自覚してから父に「何もいいこと無かった」と言ったそうです。そりゃねえよなぁ…。そりゃぁないよ。あー、やっぱ書けないことイッパイ有るね。

 骨になった母を見るのはびっくりしますよ。ビックリというか、困ります。禿げしく動揺します。イヤなもんです。でも泣かなかったなあ。それどころじゃ無いってゆーか…。実際、通夜も葬式も、ちとせちゃんのイベントライブと重なっててバタバタしました。泣くってのは、悲しくて自然に涙が出たりすることですけど、悲しいってより、かわいそう?無念だったろうなあ、もっと生きたかったろうなぁ、と気の毒に思う気持ちの方が大きかった。  ちなみに、私は絶対墓に入りたく無い。どっかの橋の上からでも、井の頭の池でも、散骨してくださいね。それは不法投棄とか、死体遺棄とかいうことで罰せられるのは存じております。ま、でも何とか頼むよ。必ず焼いてからね。骨になったやつをね。そんな大袈裟じゃなくていいからさ。捨てたからって、そんな汚いとか、不衛生とかいう物でもないですよね。小さな目立たない花でも散らしてもらって。お経とか要らないから。ラジカセで「ヘンデルのメヌエット・ト短調」でも流してもらってさ。そーだ、今のうちに選曲して編集しておこう。あ、それより「パッヘルベルのカノン」にして「いつもここから」を呼んでもらって「悲しいときー!誰かが死んだときー」をやってもらうとかね。ま、暇な人には来て頂いて、缶ビールで献杯してもらって。て、図々しいか。でもそんなのが理想ですなあ。

 話がそれました。母が死んで、その後、実家の掃除片付けゴミ出しに、20回以上行った。毎回大きなゴミ袋に、3〜4つ出して捨てるのですが、いっこうにゴミが減らない。あの人は人生において、燃えないゴミを出すということをしなかったのではないか。というのは言い過ぎですが、信じられない量なのよ。テレビのヴァラエティ番組で「ステラレネーゼ」という人々を扱った企画がありました。昔の女の人は捨てないねえ。食料品にしても、昭和時代に賞味期限の終わってる物もあった。まだイロイロ書きたいけど、これも書けないことあるです。  で切ないです。生きてる時に集めた物、溜め込んだ物は、死んじゃうとゴミなんですよ。懐かしい物がいっぱい。でもゴミなんですよ。せつない。母は絵を描くのが趣味で、膨大な数の日本画が額に入ってるのですが、これは全部を捨てる訳にはいかない。父があちこちに声をかけて貰っていただいたのだが、それでも数十点が残って、私の楽器車と家にあるのです。これは捨てちゃうと非人だよねえ。しかしながらスゴイ量なのよ。生涯、百近くは描いていただろうな。畳み一畳ぐらいの大きさのも5〜6枚有ったし。
 こんな調子で書いていくと、永遠に終わらないぞ。程々にしよう。

 母のコト、父のコト、貴方はどう呼んでますか。私は、おかあさんとも、とうちゃんとも、オヤジとも言ったことがない。面と向かっては勿論呼べず。人に話す時も、名前で呼んでいた。光子さんが…とか、昭市さんは…といった調子で。何故だろう。すごく他人行儀ですよね。
 肩を揉んだりしたことも無い。てゆか、身体に触れたことも無かった。父が死んだ時は、私は暇だったので、通夜までほとんど死体のそばに居た。初めて顔を触ってみると、これがスッゴイ冷たくて、ビックリするですよ。
 父のスゴイところは、入院して歩くことも叶わなくなっても、看護婦さんをからかい続けていたところ。勝手にニックネーム付けたり。食べさせてくれなきゃ食べない、とか言ってみたり。イメクラかなんかだと思っていたかもしれない。最後には意識も遠くなって、呂律も回らなくなっていたのだが、それでも看護婦さんが通ると「ヨォ…ネエチャン…」と用も無いのに声をかけていた。スゴイ。死んで霊安室に移されて、そこに看護婦さんが来てくれて、亡きがらに手を合わせて「アリガトウネ」と言ってくれた。驚きました。

 パソコンや自動車が壊れて、動かなくなって、修理不能になるのと同じで、死ぬってことは、壊れて動かなくなっちゃうコトなんですよ。天国も地獄も有りゃしません。葬式が終われば、居なくなるということ。残された私共は、翌日から同じように御飯を食べて、テレビを見て、歩き回って日々を過ごす。
 母が死んだ時も、カミュの「異邦人」を思い出した。どんな話しかは覚えていないのだけど、何となく思い返しただけですが。
 そーいえば、3月7日に書いた作文「私は自由であるだろう」は、実は葬式の翌日のことなんです。家にいるのがイヤで、ブラブラ外出した、複雑な心境で書いた物だったのですよ。
 母が死んでも、父が死んでも泣けなかった。今一つ実感がわかないカンジなのです。(´・ω・`) 
 数日後テレビを見ていると、保健所で殺される犬のことをやっていた。飼い主からはぐれた犬たちは、3日程で処理されてしまうのです。犬は自分の運命を察して、引っ張られても踏ん張って抵抗する。みなさん、最後まで飼えないなら犬を飼うな。犬を産ませるな。お願いします。本当に。
 見ていて涙が止まらなかった。親が死んでも涙は出なかったのに、知らない犬が死んでゆくのを見て、滂沱の涙でした。呆れる程いっぱい涙が出た。(ToT) 
 私の前世は犬だったのかもしれない。(ウソ、前世も後生も信じて無いです。)
 2004.6.21

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