1978年に、私は24になります。信介さんも20代だったことは確かです。あの年は私にとってダックスフンドの年でした。 先刻当時のスケジュール帳(カレンダー)をチェックしてみたのだが…他にもイロイロ掛け持ちしていた。残酷なまでに、殺人的なまでに、自分が可哀想に思えて涙が出そうになる程に。しかも貧乏でした。マイッカ。自分のことは。また別の機会に書きます。 |
世の中はピンクレディーが席巻していました。ピークでしたね。洋楽ではサタデーナイトフィーバー。他にはビリージョエルのストレンジャーとか。何にせよ私らミュージシャンにはツマラナイ時代でした。AOR全盛、パンク前夜といったところでせうか。私の買うLPは、マヌディバンゴとか、ブルース。見たコンサートは、ライトニンホプキンスとか、ウェザーリポート(ジャコ)。当時金なかったのに年間28回もライブに行ってたのだなぁ…。ま、自分のことはいいんですけど。 |
世の中はウォークマンガまだ無くて、デンスケでしたよ。単1電池を6本とか入れるやつ。肩に食い込む奴。カセットテープは五百円でした。タバコが150円の時代。つまり今の感覚ではカセット1本千円ぐらいなカンジだったんだろうね。ここにお届けするライブ盤も、そのデンスケで、カセットに録音したものです。 | はちみつぱい解散後の信介さんと私は、どのようにして知り合ったのだろう。何ぶん26年以上前のことなので定かでは無いのです。当時Hot
Landingというバンドをやってました。ぶっちゃけグダグダの状態で、ライブは2年以上やらずに、たまにBYG地下で練習して、居酒屋安呑で飲んだくれていただけなんですよ。つまり、道玄坂二丁目をウロウロしていたのです。信介さんもブラックホークやギャルソン界隈で長髪をなびかせておりました。78年はもう髪切ってたかな。 その前年には、あがた氏のバックで御一緒していたから、そんな繋がりだった訳です。 |
最初のライブは、1978.3.25。京成千葉マザーズ。信介さんちに早めに集まって、冨田の惑星を聴いたりしたのですが、もうシラフじゃなかったです。私の3行日記に「冨田の惑星ヤバい。怖かった」とか書いてありました。 ライブは怖く無いのよ。てゆか気持ちいい。当時はフュージョンも全盛で、僕らミュージシャンは「セッショろうぜ」とか言って、貸しスタジオで意味も無く演奏することもありました。しかしフュージョンてのは嫌いでね。オシャレなムードが嫌だし、テクニック自慢てのも空しく思えてね。スケボーとかの技術自慢と似たようなものでしょう。 かといって、歌のいるバンドでは演奏者はバックの人だしね。AAB間奏BA、みたいなことを来る日も来る日もやってる訳ですよ。ダックスフンドは違っていた。演奏者の為の曲でした。信介さんが大まかな譜面を書いてきて(今でも保存してまっせ)そして景色を説明するのです。で、僕らはその上で実に伸び伸びと演奏できた。間奏のアドリブはどんどん長くなっていった。ぼく的には10分を超える「アトランティス大陸の謎」とか「YYY」とかが好きでした。みんないい演奏してたと思うよ。 |
当時私はシンセが嫌いで、フェンダーエレピ(下スピーカー付き)のみでした。あとはテープエコーで、UFOの音とか出していました。この78年の6月に初シンセ「KORG.MS-20」を買いまして、早々使いまくってますが。もちろんモノフォニックの時代です。演奏しながら左手でツマミ類をいじって音色作っていく物です。いい時代だったよ。 ダックスフンドはこの年29回のライブが有りまして、翌79年の2月10日に、奇しくも千葉マザーズで短いライブ活動を終えてしまいます。年間10回でもかなり多いと思うけど、年間30回てのはかなりヤケクソ的な多さですよ。 |
面白いエピソードも、ツライことも有った筈だが、よく覚えていない。メンバーの名前すら、ボッシ以外は忘れていた。スマソ。 スゴイバンドだったと思うよ。レコーディングされてなくて悔しいよ。ま、当時は今のように気軽にレコーディングは出来なかったし、スケジュール的にも難しかっただろうし。 当時の鈴木茂とハックルバックには、かなわなかったかもしんないけど、ルックス的には勝っていたと思います。信介さん、みつぱい時代から赤いギブソン335で通していて、他のフュージョンの連中より早かったよね。 見せたかったなぁ。1度でいいから百人以上の客の前でやりたかったなぁ。やったか?京都大学西部講堂とか、大勢いたっけね。 |
皆でクルマに乗って、あちこち行きましたよね。私がカセットにジェシ・コリンヤングとか、エリック・ジャスティンカツとか入れていくと、信介さんにも受けが良かったです。1978年、ダックスフンドが存在したから、良い年でした。 |