1980年後半も凄いスケジュールでした。てゆか年末まで休みという日は無かった。うそ。月に1回ぐらいはあった。
 7月6日クロコダイル、ビデオ渡辺さん。と日記に書いてあるので、もしかしたら私の顔、写ってるかもしれない。疲れてやけくそかもしれません。日記には「かなり良くない」と書いてあった。この時、客の外人が近寄ってきて「オゥ、リックウエイクマン!」と言われてムッとした。張紅陽さんと私で10台ぐらいキーボードを並べていたものですから。でも、プログレは大嫌いなんだよね。
 7月30日は6回目のライブ。渋谷屋根裏。終演後から朝まで、カツラギさんのリハーサル。3時間寝て、Kittyのスタジオであがた氏のデモテープに顔を出し、その後オルガンを赤坂のスタジオに取りに行き、再び屋根裏(連ちゃん)でウシャコダ、ライブ。オルガン赤坂に戻して、吉祥寺に帰宅すると久保田くんとかが近くで飲んでて、合流して朝まで。とかね。そんな調子。
 8月はカツラギさんのレコーディングで、私アレンジャーとしてデビューしました。1曲だけど。テクノだけど。手弾きだけど。てゆか、アレンジをする時間とか無かった筈なのに、ナゼ出来たのだろう。そんなこんなの無茶な日々なのに、貧乏でした。シンセは高かったしね。
 で、無茶に無茶を重ねて、フォークシンガーのI.A.さんのツアーを引き受けてしまった。お金が必要だったんです。彼は当時人気が有って、9月の青森から12月の熊本まで、23本あった。ホールツアーです。でもこれ、やるんじゃなかった。死にそうでした。アコギとピアノの2人で、ミスタッチがすぐばれる。誤魔化せない。で、終演後楽屋で、I.A.さんに「間違えんじゃねえよバカヤロー。変わったことやろうなんて必要ねえんだよっ!」怒鳴られたりしました。I.A.さんも、私も、もう一人のギターも、26才という若さでした。

 さて、ヴイズですけど、客は少なかった。5ヶ月経ってもショボかった。アンコールで爆発する予定でも、アンコールの拍手が来ないこともあって、ガックリ。アマチュアバンドだったけど、あがたさんだけは凄かった。スゴイ形相でしたよ。どー言ったらよいのかなー。野球やサッカーの応援で、ものすごいエネルギーを爆発させて、トランス状態の人がいるじゃないですか。あるいは、その思い込みの強さは、変質者的ストーカーに匹敵するものが有る。なんて、失礼だったかしら。つまり、恋愛感情が強すぎる人に似ている。
 秋から「りぼん」というRCサクセションの事務所に世話になる形になっていて、一度キヨシローさんが見に来たのだけど、帰り際に「不気味な奴だ」と言っていたそうです。キヨシローさんといえば、11月、友和百恵結婚披露宴の時、ばったり会った。私も場違いでしたけど、キヨシローさんも浮いてる感じでしたよ。
 その11月に、ヴイズ初録音。ロンリーローラー。レコーディングといえば、ほとんどアレンジャーの指図通りにやってきた訳で、この時はだいぶ雰囲気が違った。好き勝手やらせてもらった。ドラムは明らかにリズムを後ろに引っ張っていたけど、そこが良かったのかもしれないね。てゆか、歌声の強さ、明るさが並外れていましたよ。

 此のころは、全てが楽しかった。おでん屋で徳利25本空にして並べたり。地方でやると、移動の列車で何時間もしり取りしたりして、笑いまくった。仲が良かったんだね。シーナ&ロケットや、RCサクセションの前座でやってて、はちゃめちゃ盛り上がったし、客も増えていった。
 ところが、ヴイズ初のホール、駒場エミナースのワンマンライブが、私のNG日に決まっちゃったんだよね。12月16日。私は、I.A.さんで京都会館が決まっていた。どんな仕事であろうと、先に決まったもの優先、を誠意としてやっているし、ヴイズにトラを頼むしかなかった。ライオンがトラを頼む訳です。ヴイズのマネージャーは私のことを「あの人は、いずれ辞める人ですよ」と言ってたらしい。悲しかった。
 12月は、カツラギさんと、I.A.さんが多くて、私は1人で夜行列車を乗り継いで、北へ南へ移動していた。停車時間が長い時には、あれは直江津でしたけど、寝台列車にシンセサイザーを置いたまま、1人駅前の赤提灯で、燗酒飲んでしみじみしたことも有りました。

 12月28日にはヴイズの連中が、吉祥寺の我が家で忘年会をしてくれた。嬉しかった。けど、私は別のライブが終わってから参加で、結局一番遅くなりました。

 迷惑かけるぐらいなら、引き受けない方が良い訳で、カツラギさんも、I.A.さんも、ウシャコダも辞めて、虎ノ門のスナックでの伴奏も辞めました。

 年が明けて、1981年。1月シングル発売。2月からLPの録音。その頃の衣装は、真っ赤で身体にピチピチで、度派手なフリルの付いた、ピエロというより、ドラグクイーンでしたね。で、シールド(コード)をムチにして、MS-20をピシピシしばいてました。客は満員でギャーギャー大騒ぎ。3月には夜のヒットスタジオに出て、オリコン27位まで上がった。けど、妙に陰りというか、重い空気が流れ始めたように思った。のは私だけかしら。

 レコーディングの最中に、ディレクターから、歌詞の一つの単語を直してはどうか、と意見があったようで、そのまま緊急ミーティング。重苦しい雰囲気で朝まで5時間ぐらい。1時間あたり5万円ぐらいの経費が無駄になった。ディレクターは、俺はやってらんない、といってそれっきり。
 個人的には、私の当時の嫁は、だんだん私が信じられなくなったようで、ストーカー的に神出鬼没するようになった。
 あと、近所の「あすなろ」というスナックが、とても重宝していたのに店を畳んでしまった。
 そーいった見えない陰りとは裏腹に、ライブでは怒濤の快進撃を続ける。お客さんは皆すごく嬉しそうだった。モット、モット、モット。そんなお客さんに対して、私は決して笑顔を見せなかったけど、でもスッゴイ張り切ってました。私も嬉しかったから。
2004.7.23

<戻る