年が明けて1976年は、ずうとるびが忙し過ぎて、
1行日記も書いてない。困った。もう思い出せないんだ。
でもスケジュールはメモしてあるので、もう少し書いてみよう。
てゆか、性的描写が無さ過ぎ?21歳の男、頭の中はsexで一杯?
残念でした。ホントにモテなかったし。結婚してたし。
29歳まで嫁以外の女性を知りませんでした。
頭の中はブルースLPで一杯。その頃はサルサにも手を出した。

さておき、正月4日から連日、名古屋、中野サンプラ、大阪フェス、広島。
1日置いてTVが2本、そして四国に行って翌日TVが2本。
大ホールも慣れたが、武道館でやった時は鳥肌が立った。
zeppelinとかの事ではなく、PAモニターが弱くて、聞こえない。
正面からはね返る音がズレて聞こえる。音がヒド過ぎて鳥肌立ちました。
TBSのイヴェントで、郷ひろみ、五郎、秀樹の御三家と、ずうとるび。

3月21日は沖縄市体育館。すごく楽しみにしていたのに、日帰り。
滞在時間5時間ぐらい?飛行場から直接ホールヘ。
終われば可能な限り日帰り。日本全国、時間的に地方を味わう余裕が無い。
でも沖縄は英語の看板が多いし、クルマが右側通行だったよね〜!
子供達も「YAMADA~」「アライ〜」呼捨てで叫ぶ。新鮮なり。

こんな状態が1年間続く。People session bandは現実的にムリ。
共有財産だったオルガンとレスリーは、中古ということで25万で私が買取る。
ポニー&チークスは、サイクリングハネムーンと名を変え、
さらに1年。ま…でも私が必要とされてた訳ではなく、
キーボードの音が必要とされてた、だけっすよね。

ずうとるびでも何でも。収入があっただけでも奇跡的な1976年。
嫌な事もあった。てゆか、ほとんどは嫌な事だった。
ずうとるびの仕事してる事を、 セラヴィというBLUES飲み屋で、
ポロッと言ってしまった。鼻で笑われ、馬鹿にされた。むかつく。
その店には2度と行かない。BLUESファンなんて、馬鹿だらけだ。

2月1日はフランク・ザッパ&マザーズ公演が浅草であった。
私は長野公演で見れなかった。これはホントに本当に悔しい。
これ程クヤシイ事が他に有るだろうか。嫁は1人で行きました。
興奮して「スゴイ」しか言わない。私も聞きたくない。
でもSONYデンスケで、カセット2本分、生録が有るのよねー。
勿体ないのと悔しいので、未だに聞いてないのです。

1976年は記録が少なくて、どこまで思い出せるか心もとないが、
1月にBYG地下で練習してるHot Landingに混ぜてもらった系だね。
2月に「高円寺ラム亭」というメモが有る。
実在したんだよ。ラム亭でヨタロウ、チャーリーと飲んでる?
慶一さんもいたと記憶する。
ムーンライダースが2/22に、高田馬場Peopleで決まっている。
その前座でHot Landingがやるから、一緒にやろうという話し。
私は奇跡的に5日間空いており、4日間リハをして本番に望む。


はちみつぱいは見ていたが、ムーンライダースは更にロックでした。
「火の玉ボーイズ」日本のロックの金字塔でした。
アメリカでも日本でもない。70年代でありつつ、40年代を聴かせる。
正に時空を超えた名盤。1976年度ニューミュージックマガジン「私の選んだベスト」において、矢吹さん、小倉さんが選んでいた。
洋楽に混ざって選ぶって、画期的な事だったのよ。


その時代、もうROCKは完全に終わっていた。
他に選ばれたのは「シルクディグリーズ」「チキンスキン」「ワイアード」
私は相変わらずBLUES。サルサ。あとは大滝「ナイアガラムーン」
自分の血と肉になるのだ、なんて全く思わない。
映画鑑賞とか、読書、登山とか、それ系の趣味でもない。
鉄道オタクに近いかもしれない。もう病気かもしれなかった。

話しが逸れました。
1976年は、バンドに参加する余裕は無かった筈だが、
ムーンライダースとは、お近付きになりた〜〜い!
Hot Landing(名付け親は岡田徹さん)はムーンライダースの弟分。
特にギターのヒロシ君と、デブのチャーリーは慶一さんのストーカー。
毎日のように付きまとっていた(ように見えた)。
で、そのPeopleライブ。アドリブ間奏とか、好き勝手やりまして、
初めて自分の演奏がカッコいいと思った。ファンキーリズムだし。
てゆか、Hot LandingそのLIVE、カセット録音しました。物持ちがイイ。
Moonridersの生録もアリンス。私と博文さん21歳。慶一さん24歳。
翌月は、青山VAN99ホールでMoonridersの前座。
この時は慶一さんが、KORG800DV(国産初の2VCOシンセ)で、
1曲参加してくれた。5月の郵便貯金ホール「ムーンライトリサイタル」では、
ぼくら6人顔を黒くぬって「オールマンリバー」とかコーラス隊で参加。
この模様はライブCDになって8年前に発売。細野さんも出演してる。
私は、ずうとるびを抜け出して参加。翌日からサンプラザ2DAYS。
Hot Landingは、趣味が近いと思った。(勘違い?)
アルグリーンとか、ボズ。リトルフィート。ザバンド、好きそうだし
何だかモメテルけど、私が何とかまとめようと思った。(勘違い)
何より練習あとの飲み会が良かった。BYGの近くの「安呑」。
6月、Moonriders officeの秘蔵っ子としてライブを始める。
てゆーか…殆ど「ポニーテール」という女性デュオのバックバンド。
何だか、利用されちゃったなー的な気分も有る。

程なくBassの風太郎がやめる。
シュガーベイブが解散して、フリーになった寺尾君に来てもらったが、
かれは映画の翻訳字幕を仕事にするそうで、代わりに光永君(18)が来た。
ドラムのBOSSIも売れっ子で、掛け持ちが多くて辞めちゃった。
代わりに井上君という、無口な酒癖の悪い善人がメンバーになる。
デブのチャーリーは…、彼の事を書くと長くなるから割愛。
でも、いつの間にか、後年ひっそり死んでしまった。参った。

私の20歳、21歳。以上ですが…。もう少し書かせてけろ。
ずうとるび山田君はモンキーズファンでした。
7月18日、日比谷野音。この時モンキーズがゲスト出演。
マイク・ネスミスと、ピータートークは居なかったが、
恋の終列車/ モンキーズのテーマ/ バレリーの作者である、
ボイス&ハート、 そして、デイビー、ミッキードレンツの、
4人組ニューモンキーズ。合同演奏でダンス天国やった。
中学生の自分に自慢してやりたいね〜。合同演奏っすよ。
すうとるびも人気のピークで。移動がパニックでしたなぁ。
名古屋駅では出入り禁止。新幹線のホームが危険すぎる。
9月にはメンバーとバンドとスタッフと、ハワイ旅行。
私は奮発して嫁も連れて行った。ビーチに草を売る人がいる。
1976年、所得申告190万円。還付金が11万あったのが滅茶苦茶嬉しかった。
翌年ずうとるび辞めて(辞めるときは大変だった。「お前さぁ、2度とこの業界で仕事出来なくしてやるよ」と言われた。)でも辞めて。
彼の圧力の所為ではなく、自然の成り行きで収入が無くなった。
1977年度から3年間合計150万円。年平均50万…。
貧乏で飢えて死ぬ人はいない、とはいえ貧乏は苦しい。
腹の中に冷たい鉄が、30kgの塊があるような病気と同じ。

9月、憧れのファニアオールスターズ、見たことも事件だが、
もっと衝撃的な事があった。あがた氏のサポートをする。
BYG界隈で、風都市の前島兄弟、存在は知っておりましたが、
私が呼ばれる。ライダースオフィス経由だったのかなぁ。兎に角。
9/12テレビ神奈川ヤングインパルス(くじらさんと)。
9/20「奥さま2時です」(駒沢さんと)曲は「フモレスク」。
サウンドチェックで、あがた氏鬼気せまる本気の熱唱で8分間。
番組Dが「はいOKです〜本番は2分で御願いします〜」え?え?
本番、どうしたのかな?フェイドアウトだったのかな?
どの道1970年〜1989年まで、約20年間は、テレビが無い生活。

彼とは12月にも三ノ輪モンドでやりました。重くて薄暗い世界。
ピアノの要らない曲で、ジッと座って聞いていて、居眠りしてしまった。
プロ失格。でもサイクリングハネムーンも、ポニーテールも、容赦なくリハを突っ込んで来て、
地獄の毎日でした。他にも色々有った。全部辞めたかった。
あがた氏といえば、練習で本番さながらの熱唱で、泣いてるのかな?とか。
その後の人生では、遠藤賢司さんのリハーサルにも驚いたね。
忌野清志郎さんのリハも、踊ったりジャンプしたり、驚いたよ〜。

さて風都市のマネージメントで、10月2日から、大滝詠一さんのリハが始まる。
どう考えてもムリな予定表だったが、私は大滝さんのファンですから。
やりたかった。でもリハを早退したり遅く出たり、無茶だったよね。
5日間のR.Hで渋谷公会堂。Bass光永。Dr.井の坊。G.村松。
Pedal-steel.駒沢。ピアノに当時ピンクレディーのkey.井上鑑。
私はオルガンとソリーナ。大滝さんについても書きたい事は有るのだが、
終わらないね。兎に角、深層心理に影響を受けた。
翌年もツアーや録音に呼んでもらえて、ホント嬉しかった。福生遠いけどな。

しかし、私は、このままで良いのだろうか。曲を作った事も無い。
自宅録音したこともない。勿論、歌った事も無い。
便利屋人生で磨り減ってゆく。
あの頃の夢は、3連休。休ませて。御願い。

ロックに興味ないと言いながら、トッド・ラングレン初来日、皆で見に行った。
トッドが表紙のN.M.M。国内ニュースの最後に私の名前が載りました。
「ポニーテールのバックを務め、ムーンライダースなどと共に活動を行ってきたホットランディングが、そろそろ活動を始めそうだ。木原浩、伊藤純弘、上田雅人、光永巌、井上敦の5人。デイブ・メイソンの今度のライブのような音が理想だとは、リーダー木原君の御言葉」
と紹介されました。現実はバックバンド。もう心は腐りかけていた。


人生、ケナされることは有っても、まだ褒められることは無い。
クヤシさが原動力で、毎日コツコツ真面目に予習復讐。

12/30。渋谷屋根裏でHot Landing。feat.あがた森魚/駒沢裕城。
焼き鳥屋で打上げ。青山ガスコンに流れ、私はゲロ吐くまで飲んで。
翌日は同じ様なメンバーでBYG忘年会。BlackHawkへ流れる。1976年終了。



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