1979年、24歳。まだ明大前、あばら屋(長屋)に居ます。
年を跨いで、忙しいという程でもなく、そこそこ暇だが金が無い。
ワコマンというギタリストと、よくセッションしてた。
セッションバンド。チックコリアの、プログレ的な部分とか。
isn’t she lovely.とかが定番曲。ほとんど即興的遊び。
ワコマンは交友関係が広い。狡猾てのは言い過ぎだが、英語で言えばSLY?

ヒドイ話しだけど、渋谷「屋根裏でセッションしようぜ」って、
深夜、鍵を叩き壊して侵入。セッション。レジも壊してみたり。
ある時は八百屋でレタスを10個ぐらい買って、芯だけ集めて、
刻んで天火で焼いて、吸ってみたり食ってみたり。
勿論なんの意味もなかったです。笑いました。

ワコマンの紹介でリットーミュージック、ギター教則本を書く仕事。
1冊まるごと人気ギタリストのアドリブソロ、を譜面にする。
ラリーカールトン、リトナー、ディメオラ、エリックゲイル、ベック。
私が譜を書き、白井良明氏にTAB譜を頼み、白井雅人とか変名で出した。
大変な作業〜。3ヶ月かかった。2度とやりたくない。
ディメオラは速いだけで、譜面的には書けたけど、問題はベック。
天衣無縫すぎて…譜面に書き様がない。良明氏は譜面もスゴイ強い。
本は出たけど、1冊もくれなかったなぁ。ま、いいけどね〜。

その作業で、深夜うちに来て、ビールが足りないってことで、
明け方、良明氏と自販機に買いに行く。自販機のフタが開いてた。
我々はTシャツをエプロン状にして、8本ぐらいずつ横領する。
「逃げろ」と小走りに戻る途中、1本落とした。拾ってらんない。

青春ですなぁ。ROCKの仕事なんて有る訳が無い。録音仕事はたまに有る。
信介氏の映画音楽(日活ロマンポルノ)録音に呼ばれたり、
1979年2月その繋がりで、藤本氏の大江戸新喜劇。渋谷のKAWAIで録音。
この時、国産初の和音が出るシンセ、JUPITER-4を持ち込んだ人々、
後で知ったが、彼らがデビュー前のヒカシューでした。

あとは、Hot Landingが、再び曲作りを始めたこと。
ギターには福島出身の吉田マーシー。彼も赤いGibson-335だった。
BYGの地下が劇的に改装され。床の穴がなくなった。嬉しい。


3月 ドラマーの富岡グリコ氏から連絡があり、メンバー募集。
三浦友和の全国ツアー8ヶ月。7回みっちりR.H.が有りましたが、
編曲家が譜面を書くので、案外気が楽です。他はTENSOWの人とか。
和歌山、京都、石川、水戸、新潟、札幌、室蘭。南は福岡まで。
17カ所。最後は12月16日サンプラザ。楽屋に百恵さん!ビックリ。


私はこのバンドの雰囲気に馴染めず。基本的に、私は喋らないタイプだが。
でも17回は飲んで雑談してる筈なのに、後年、富岡グリコ氏に遭遇して、
「覚えてます?」と聞いたら、覚えてないと言われた。私って影が薄いネ。
ツワーの楽しみは、ラジカセで聴くカセット選び。貸切大型バスの時に、
Weather Reportを音出して聞いてたら「誰だ?やめなさい」と怒られた。
皆さんBGMとして歓迎してくれる、と思った自分が浅はかでした。
そう言えば、ウォークマンが発表された年だ。1979。家賃より高かった。

MCも台本があるパッケージツアーでしたが、広島市公会堂で友和さんが、
「先程、クルマで移動中に、自転車に乗ってる長髪の男がいて、
広島にも変な奴っているもんだナ、とスタッフに話してたら、このキーボード!
上田が自転車に乗って走ってる。なんでだよって!笑いました」と紹介された。
ツワー終了後は、誰とも会ってないけど、翌年、友和百恵結婚式招待された。
世界に、これほど華やかな場所があるだろうか。場違いにも程が有る。
同じく、場違いな忌野さん発見。こんにちわぁ的な。少し挨拶して。
私は早退。引き出物?赤と黒の革の手帳。しばらく大事に保管した後に、
アドレス帳にしたけど、後年、公衆電話に置き忘れて紛失。

4月 BYGから目白の空き家(伊藤家所有?)にリハ拠点を移す。
頻繁に集まってた。リハーサルしつつ「本気隠れんぼ」で遊ぶ。3階建て。
虎ノ門マリーゼは、4月から、平日は毎日出勤になる。もうオフは無い。
しかも何を血迷ったか、教習所に申し込む。午前中に教習所に行って、
午後は目白でHot Landing。6時に虎ノ門に出勤。いつ銭湯に行ってた?
他の録音や、三浦友和も有り、割と来客も有り、その都度泊めていた。
夫婦生活とか有ったのかな…。ホッとする時間は有ったのかな…。

見たライブでは、ボブマーリーが印象的だが、客は静か。何だか寂しい。
E.W&Fも見てた筈だが、印象に無い。断然ぶっ飛んだのはDEVO。
会場で偶然、Hot Landingのメンバー、あと、シネマの人々、
慶一氏、博文氏。あがた氏も来てた筈。Talking Headsも最高だと思った。

5月から録り始めたHot Landingのデモテープも、NEW WAVEの影響あり。
目白の空き家に、私のステレオ持ち込んだですよ。4ch.オープンリールと。
録音に夢中。初めて聴いて欲しい作品が出来た。LPにしたかったよ。
そのdemoカセットで、初めて作曲をした。作詞と歌(ボコーダー)も。
てゆか9曲入り(+)私の自宅録音1曲なので、もしLP化されたとしても、
私の曲は外されたでありましょう。バンドではないですから…。
ともあれ、完成祝いに神保町で写真を撮る。 私はナヨナヨしたブラウス。
スカート履く勇気は無かったけど、当時から女装したかったんです。
気分はEno。化粧して表参道を飲み歩く。朝6時まで。

ROCKが…というより、終わった筈のROCKが脱皮した雰囲気?
その年、私が買ったLPのBEST3は、ポリス『白いレガッタ』
YMO『ソリッドステートサーバイバ』イアンデュリー『DO IT YOURSELF』
クラフトワークも理解できるようになった。
9月に見たTUBESの前座はYMO。客席は拍手がパラパラパラ。

7月、私は来栖アンナも始める。初回は夜行寝台で八戸のクラブ。
歌舞伎町(タテハナビル)と原宿クロコは毎月レギュラー。圧倒的に本数が多い。
年内半年で40回。9月からは葛城ユキも始める。大晦日まで休み無し。
てゆか、午前教習所、夜は虎ノ門マリーゼは継続。なぜ引き受けたの?
なぜ出来ると思ったのだろう。絶対不可能だよ。頭がオカシイよね。
演奏が大変ということではなく、時間調整が不可能だよ。
あと毎日の楽器運びだよ。スケジル見ると深夜23時から朝までのリハもある。
よく生きてたよなぁ…。
8月 TEACの4tr(4ch)オープンリールデッキ14万(月賦)で購入。
あれ?Hot Landingのデモは、私のテレコではなかったのかな?
馬が合わなくて疎遠になってた友人Sに、 初作曲『むし』を誉められる。
19歳で音楽と関わり始め、6年後ようやく自分のやった事が誉められた。
演奏する事より、音を作る事の方が面白いってことに目覚めた。
天才の予感にワクワクしながら、井の坊にドラムを叩いてもらって録音。
なぜなら当時ドラムマシーンとか無かったから。まずドラムを録音。
名曲を作るなんて気持ちはサラサラ無く、とにかく和風でない物を作りたい。
家に帰って寝ることも困難な時代に、寸暇を惜しんで録音を始めたー。
自分で歌いたい訳ではなかったが、人に歌わせる訳にもいかず。
何とか歌に漕ぎ着けたいが、才能の限界も知る。 暇の無さにもイライラ。
暮れにKORGのリズムボックス(KR-55)55000円で購入。
これは後々ヴァージンVSでも活躍した。
夢は3連休。録音を始めたい!
12月12日は2年ぶりのHot Landingライブ。 新宿ロフトで「東京ネットワーク」
与太郎/GUN/チャーリー/私/井の坊/Guitarはマーシー。
シネマ/プラネッツと三つ巴。終了後クルマ(来栖アンナ号)を戻して、
下北で打上げ。私はネバーランド(はち屋の2階)に合流。GUNウチに泊め。
         限界まで働いた1979年(25歳で)終了。

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