明けて1980年は25歳。
前回、言い忘れたのは、晩秋に免許取得。これにて、自分で運べる訳だが、
結局誰かのクルマを借りに行って、返しに行く手間が増えた。
暮れに、一色氏はバイトの給料を落とす。
神保町の仲間に「気を落とすなよ」「金を落とすなよ」と言われ、
酔っぱらってウチに来て、チャーリー共々泊まって行く。
翌朝、彼は二日酔いで出勤、2階から転落して入院した、とのことです。
久々の休みを利用して、初ドライブは、我孫子の病院への御見舞いでした。
我孫子病院から、鎌ヶ谷のチャーリー宅を訪問する。オシャレな実家。

正月発売『ヤングギター』でHot Landing、写真付き2頁で紹介されたが、
1/23の新宿ロフト「東京ネットワークvol.2」で2名が脱退する。
脱退した吉田マーシーと、Dr.の井の坊は(私も)葛城ユキのバックバンド。
狭い世界でグルグル回ってます。
マーシーは楽器車運転係もやってたが、2月早々病気入院してしまう。
以後、私が運転係。

1月 引越を決意して、便利の良い新宿中心に探す。
4日目に奥さんがヒステリーをおこす。泣きたいのは俺だっ!
翌日、吉祥寺に決める。今回も風呂無し。トイレは又しても汲取式。
与太郎氏に「汲取マニア?」と揶揄されるが、ホント偶然っす。
私が運転手ってことで、近所に楽器車の駐車場を借りるが、
3月13日駐車場に行くと、ハイエースからエレピが下りてる。
中を見て愕然。殆ど盗られた。
当時の運転席三角窓はドライバー1本でこじ開けられるのでした。
エレピは大きすぎて助かったが、私はテープエコーをやられた。
あと、ベースのヘッドアンプ新品。ベースも盗られたっけなぁ。
最悪なのは、チャーリーが時津氏に借りてたダンエレクトロギター。
警察行って盗難届出すが、警官ごとに同じ話しをさせられる。
疲労困憊。気が遠くなる。揚句に「多分ムリです」と言われた。

2月3月、演奏仕事ってのは(虎ノ門マリーゼ以外は)来栖アンナと葛城ユキ、
メインでしたが、単発の録音やらDEMO録音は多し。覚えてないよ。
後年、田口トモロヲ氏が与太郎宅に来て「このサンタクララって、泥臭い歌謡曲」
とシングル盤を見せた(彼はシングル盤マニア)そこに私の名前もあって爆笑。

4月1日。ラフォーレ原宿で雑誌主催のロックイベントに、Hot Landing。
サウンドチェック後、抜け出してワーナーで、ウシャコダというバンドの録音。
曲は『田舎ディスコ』コミカル。面白かった。慌てて戻り化粧もせずライブ。
コンテスト式だったのかな。THE MODSというバンドが優勝。
数年後、MODSの録音に参加した筈だが、盤ももらわず。ギャラも貰わず。

与太郎、チャーリーは仲悪くて、…ってゆーか言いたい事を言い合ってて。
普通は、言いたい事って我慢するもんだべ?Hot Landingで最後に残ったのは、
私と光永GUN。4月21日、新宿ロフト「東京ネットワーク4」で、
4年と3ヶ月の活動終了。ギターの岩倉氏、ドラムはボッシにサポート頼む。
その日もシネマ/プラネッツ。てか、シネマのレコ発でした。Bass一色進。

4月 Hot Landing解散して、同時にヴァージンVSとウシャコダ、始まる。
この頃のカセット音源、各種あります。田舎ディスコの練習風景も。
では順番的に、ウシャコダ話しをまとめて仕舞います。
5月 アンナ/葛城ユキの隙間がウシャコダ。(その隙間に虎ノ門マリーゼ)。
LP『パワフルサラダ』の録音は、池袋サンライズ・スタジオ。
プロデューサ(?)は、鷺宮高校の岡井先輩。懐かし。
井野/岡井、ツインドラムも有ったね。シングル『愛の水中殺』はLP未収録。

ライブ初参加したのは、日仏会館リサイタル(5/23)いきなりだよ。
24,25厚生年金と、6/1渋公はマディウォーターズの前座!3日間だったの?
日記には「マディ感動!スゴイ!握手した、写真撮った」と書いてある。
ブルースバンドなんて、初体験なのに、ピアノのバラードの曲あります。
くそ図々しい。私はアホカ。出来ませんって言えよっ!恥さらしやね〜。


初ライブハウスは、吉祥寺シルバーエレファント。開演5分前、客1人。
路上にて、即興で現場検証ごっこ、と言って死体役、警察役で遊び始める。
客が10人くらい集まり、ライブ開始。しかし「ウシャコダの歴史」と言って、
ディープパープルから。私は呆然と見送る。何のための練習だったですか。
そもそもLPを貰って予習すべきだったよ。
初めてデビューLPを聞いたのは、50過ぎて九州の田舎の寺だったかしら。

4ヶ月、17回公演、富山/金沢までサーカス巡業のような興行でした。
富山で藤井氏が「ここも田舎だなぁ」と言うと「田舎じゃねえぞ!」と野次。
サーと温度が下がる。田舎って言葉は、相当屈辱的な差別用語だったのネ。
当時皆さん23歳?現在58歳?同じ曲を元気でやってる。奇跡としか言えない。

ヴァージンVSの話しの前に、他の話しを済ませておきます。
最も多いのは、来栖アンナ/葛城ユキ。この年だけで109回!後にも先にもだ。
アンナさんも寡黙な姉御で、会話すること少なかった。
1度ライブ前にメンバー酔っぱらって、曲の構成がめちゃくちゃ。
クロコダイルのステージ上で「ちょっとアンタ達!いいかげんにしなさいよ!」
と怒鳴って帰ってしまった。Bassのファンキー(名前)も逆切れして帰る。
私は運転手として飲んでなかった。プロ失格だわよね〜。酔うって…!

8月以降は来栖アンナに別のバンドが付き、私らは葛城ユキバンド。
まず箱根ロックウェルで5日間、セカンドアルバム録音。酒量がモノスゴイ。
皆さん飲んで麻雀の時間に、私は編曲家として初仕事『ロンリーミッドナイト』
リズムBOXとvocoder。好きにやらせてもらった。初仕事って…甘酸っぱい。

葛城ユキで、近県は全員ハイエース移動。嫌な客がいるとユキさん飲みまくり。
帰路高速道路で「おしっこ〜!」と絶叫され15分おきにクルマを止める。
車内では飲むなよ。井の坊はクルマの窓からチンチン出して放尿しやがる(困)
ボヘミアンがヒットする前に私は脱退。翌年、井の坊から電話あり、
「ファンキー(Bass)が死んだ」離婚して泥酔して、ダンプに引かれて。
無惨に千切られたそうです。アフロでした。真面目な人でした。

えーと、因幡Aという、フォークと演歌の中間、9月からツアー始まる。
この無理なスケジルも、ナゼ引き受けたのか…ホントに気が知れない。
結果的に各位に迷惑かけるって分かりきってるのに。ナゼ断れない?
ホントに…やるんぢゃなかった。暗い曲。アコギと2人。ミスが目立つ。
ミスすると楽屋に戻ってから因幡氏が「間違えてんじゃねえよ!」怒鳴る。


真面目に譜面書いても選曲変わったり。ホントに疲れた。普通か…?
10/29山形、寝坊して飛び出て譜面忘れた。人生最大のピンチ。
ギターの治郎さんが超イイ人で、譜面作りを手伝ってくれた。泣いたです。
葛城ユキ、ヴァージンVSと、西へ東へ間に合わなくて、独り夜行寝台多し。
ジュピターシンセにキャスター付けて、ゴロゴロ。直江津で30分停車。
ジュピターを列車に置いたまま、駅前赤提灯で、独り熱燗をたのむ。渋い。
因幡は23本。ほとんどが地方の市民会館。葛城ユキと、ヴァージンVSと、
ウシャコダと、スケジル見ても、グチャグチャで解明するのが困難。
身体だけでなく、楽器の運搬も、間に合わない部分は借りて、翌日返却。
マネージャー存在せず、自分が、家の電話で調整していたのも信じがたい。
愚痴ボヤキ系人生ですが。面白い事も笑っちゃうことも有ったんです。
ヴァージンVSも始まってたが、文章長くなり過ぎたので次回にまわします。

9月 1ヶ月ぶりに虎ノ門マリーゼにピアノを弾きに出て、最後にする。
もう1度あの場所を訪ねてみたいが、2年以上通ったのに場所わからない。
写真ぐらい撮っておけばよかった。この時代、写真が無いんですよね。
ホントに。写真ぐらい撮っておけばよかった。何も残ってない。
スケジル表だけが残っている。

12月 マリーゼから電話があり「時間がある時だけ来て」と言われる。
9日夜、BGMの演奏しながら、背中で聞こえたのだが、店の女性が客に、
「ねぇねぇジョンレノンが殺されちゃったの!」と話していた。
何だか全くピンと来なくて、全てが夢の中のような気がしていた。
BLUESやサルサに夢中で、5年ぐらいはBeatles聞いてなかったなぁ。
翌日、リハーサルに向かう途中、甲州街道。ラジオでは追悼番組。
イエスタデイ。違うだろ。違うだろ。と泣けて来て。前が見えない。
運転に支障を来すので、クルマを止めて5分ぐらい泣いた。
    1980年、26歳になり、終了。

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