明けて1980年は25歳。 前回、言い忘れたのは、晩秋に免許取得。これにて、自分で運べる訳だが、 結局誰かのクルマを借りに行って、返しに行く手間が増えた。 暮れに、一色氏はバイトの給料を落とす。 神保町の仲間に「気を落とすなよ」「金を落とすなよ」と言われ、 酔っぱらってウチに来て、チャーリー共々泊まって行く。 翌朝、彼は二日酔いで出勤、2階から転落して入院した、とのことです。 久々の休みを利用して、初ドライブは、我孫子の病院への御見舞いでした。 我孫子病院から、鎌ヶ谷のチャーリー宅を訪問する。オシャレな実家。 |
正月発売『ヤングギター』でHot Landing、写真付き2頁で紹介されたが、 |
1月 引越を決意して、便利の良い新宿中心に探す。 4日目に奥さんがヒステリーをおこす。泣きたいのは俺だっ! 翌日、吉祥寺に決める。今回も風呂無し。トイレは又しても汲取式。 与太郎氏に「汲取マニア?」と揶揄されるが、ホント偶然っす。 |
私が運転手ってことで、近所に楽器車の駐車場を借りるが、 3月13日駐車場に行くと、ハイエースからエレピが下りてる。 中を見て愕然。殆ど盗られた。 当時の運転席三角窓はドライバー1本でこじ開けられるのでした。 エレピは大きすぎて助かったが、私はテープエコーをやられた。 あと、ベースのヘッドアンプ新品。ベースも盗られたっけなぁ。 最悪なのは、チャーリーが時津氏に借りてたダンエレクトロギター。 警察行って盗難届出すが、警官ごとに同じ話しをさせられる。 疲労困憊。気が遠くなる。揚句に「多分ムリです」と言われた。 |
2月3月、演奏仕事ってのは(虎ノ門マリーゼ以外は)来栖アンナと葛城ユキ、 |
4月1日。ラフォーレ原宿で雑誌主催のロックイベントに、Hot Landing。 サウンドチェック後、抜け出してワーナーで、ウシャコダというバンドの録音。 曲は『田舎ディスコ』コミカル。面白かった。慌てて戻り化粧もせずライブ。 コンテスト式だったのかな。THE MODSというバンドが優勝。 数年後、MODSの録音に参加した筈だが、盤ももらわず。ギャラも貰わず。 |
与太郎、チャーリーは仲悪くて、…ってゆーか言いたい事を言い合ってて。 普通は、言いたい事って我慢するもんだべ?Hot Landingで最後に残ったのは、 私と光永GUN。4月21日、新宿ロフト「東京ネットワーク4」で、 4年と3ヶ月の活動終了。ギターの岩倉氏、ドラムはボッシにサポート頼む。 その日もシネマ/プラネッツ。てか、シネマのレコ発でした。Bass一色進。 |
4月 Hot Landing解散して、同時にヴァージンVSとウシャコダ、始まる。 この頃のカセット音源、各種あります。田舎ディスコの練習風景も。 では順番的に、ウシャコダ話しをまとめて仕舞います。 5月 アンナ/葛城ユキの隙間がウシャコダ。(その隙間に虎ノ門マリーゼ)。 LP『パワフルサラダ』の録音は、池袋サンライズ・スタジオ。 プロデューサ(?)は、鷺宮高校の岡井先輩。懐かし。 井野/岡井、ツインドラムも有ったね。シングル『愛の水中殺』はLP未収録。 |
ライブ初参加したのは、日仏会館リサイタル(5/23)いきなりだよ。 |
初ライブハウスは、吉祥寺シルバーエレファント。開演5分前、客1人。 路上にて、即興で現場検証ごっこ、と言って死体役、警察役で遊び始める。 客が10人くらい集まり、ライブ開始。しかし「ウシャコダの歴史」と言って、 ディープパープルから。私は呆然と見送る。何のための練習だったですか。 そもそもLPを貰って予習すべきだったよ。 初めてデビューLPを聞いたのは、50過ぎて九州の田舎の寺だったかしら。 |
4ヶ月、17回公演、富山/金沢までサーカス巡業のような興行でした。 |
ヴァージンVSの話しの前に、他の話しを済ませておきます。 最も多いのは、来栖アンナ/葛城ユキ。この年だけで109回!後にも先にもだ。 アンナさんも寡黙な姉御で、会話すること少なかった。 1度ライブ前にメンバー酔っぱらって、曲の構成がめちゃくちゃ。 クロコダイルのステージ上で「ちょっとアンタ達!いいかげんにしなさいよ!」 と怒鳴って帰ってしまった。Bassのファンキー(名前)も逆切れして帰る。 私は運転手として飲んでなかった。プロ失格だわよね〜。酔うって…! |
8月以降は来栖アンナに別のバンドが付き、私らは葛城ユキバンド。 |
葛城ユキで、近県は全員ハイエース移動。嫌な客がいるとユキさん飲みまくり。 帰路高速道路で「おしっこ〜!」と絶叫され15分おきにクルマを止める。 車内では飲むなよ。井の坊はクルマの窓からチンチン出して放尿しやがる(困) ボヘミアンがヒットする前に私は脱退。翌年、井の坊から電話あり、 「ファンキー(Bass)が死んだ」離婚して泥酔して、ダンプに引かれて。 無惨に千切られたそうです。アフロでした。真面目な人でした。 |
えーと、因幡Aという、フォークと演歌の中間、9月からツアー始まる。 |
真面目に譜面書いても選曲変わったり。ホントに疲れた。普通か…? 10/29山形、寝坊して飛び出て譜面忘れた。人生最大のピンチ。 ギターの治郎さんが超イイ人で、譜面作りを手伝ってくれた。泣いたです。 葛城ユキ、ヴァージンVSと、西へ東へ間に合わなくて、独り夜行寝台多し。 ジュピターシンセにキャスター付けて、ゴロゴロ。直江津で30分停車。 ジュピターを列車に置いたまま、駅前赤提灯で、独り熱燗をたのむ。渋い。 |
因幡は23本。ほとんどが地方の市民会館。葛城ユキと、ヴァージンVSと、 ウシャコダと、スケジル見ても、グチャグチャで解明するのが困難。 身体だけでなく、楽器の運搬も、間に合わない部分は借りて、翌日返却。 マネージャー存在せず、自分が、家の電話で調整していたのも信じがたい。 愚痴ボヤキ系人生ですが。面白い事も笑っちゃうことも有ったんです。 ヴァージンVSも始まってたが、文章長くなり過ぎたので次回にまわします。 |
9月 1ヶ月ぶりに虎ノ門マリーゼにピアノを弾きに出て、最後にする。 |
12月 マリーゼから電話があり「時間がある時だけ来て」と言われる。 9日夜、BGMの演奏しながら、背中で聞こえたのだが、店の女性が客に、 「ねぇねぇジョンレノンが殺されちゃったの!」と話していた。 何だか全くピンと来なくて、全てが夢の中のような気がしていた。 BLUESやサルサに夢中で、5年ぐらいはBeatles聞いてなかったなぁ。 翌日、リハーサルに向かう途中、甲州街道。ラジオでは追悼番組。 イエスタデイ。違うだろ。違うだろ。と泣けて来て。前が見えない。 運転に支障を来すので、クルマを止めて5分ぐらい泣いた。 1980年、26歳になり、終了。 |